オタクが『ヴィオレッタ』を観たにょ

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↑劇中で1番良いカットだ。

 

ヴィオレッタ』(2011)を観た。

クソ可愛い幼女が出てくる。本当にクソ可愛い。”概念的”ですらある。名をヴィオレッタという。クソ可愛い幼女が母親に服を着せられ、写真を撮られる。そんな映画だ。

ローマの休日』のオードリー・ヘップバーン、『マスク』のキャメロン・ディアス、あるいは『レオン』のナタリー・ポートマンを想像して欲しい。彼女たちは5秒以上顔面を接写されることに耐え得る魅力を持っている(「画面が持つ」とか言うんだったか?)。実際、”納得のいく物語構成”、伏線回収、Save The Cat、シド・フィールド、映画評論家による解説と分析、The New York Times編集部、そして肥大化するポリティカル・コレクトネスの概念たちを一切無視した上で、「ヒロインがクソ可愛い」の一点によって映画は成立してしまう。故に幼女がクソ可愛い映画の要約は「クソ可愛い幼女が出てくる」だけでいい。ここには一切の過不足がなく、本稿は本来二行目で終わっている。

 よって以下は無駄な部分だ。読む必要はないし、書かれる必要もなかった。

...

美しい少女ヴィオレッタは悪趣味な写真家の母親によって変えられていく。無垢な少女は愛する母親の期待に応えるように自身をその色に染め上げる。緩やかにウェーブを描いていたロングヘアにはパーマが当てられ、血のように赤い口紅が塗りたくられる。我々は失望を感じ始めている。

 あらゆる部屋、映画が作り出す全ての空間に煙草の匂いが充満している。フランス映画に特有の、私たちの嫌いな昼の日差しが部屋に射し込む。気分が悪くなってきた。

母親の撮影は徐々にエスカレートする。グロテスクでエロティックな写真は評論界で評価される。案の定バタイユが出てくる。

映画中で初めての風景画が映り込むとき、ロリコンの音楽家ヴィオレッタにキスをする。ラストシーンみたいだと思う。ラストシーンであることに違いはない。我々が映画の少女に抱いていた“期待”はここで決壊するからだ。セックス、ドラッグ、タバコとブリーチで少女は少女性を剥奪されていく。フィルムに焼き付いた美しき箱庭は崩壊し、現実へと“退転”を始める。同い年の女の子と話が合わずに孤立していく。

我々はヴィオレッタに、クラスに1人はいたあの危うい女子生徒の影を見ることになる。大学生と付き合っていると噂されていたあの子だ。いつも1人で飯を食っていた。イヤホンを付けて相対性理論を聴いていたはずだ。彼女はいつの間にか居なくなる。“外部”へと、大人の世界とか向こう側とか言われるところへと飛び出していくらしい。ひと足早く、少女の身体のままに。そこは俺たちがいる安全な世界 ────出世、家族、大型テレビ、洗濯機、車、CDプレーヤー、健康、低コレステロール、住宅ローン、マイホーム、おしゃれ、スーツとベスト、日曜大工、クイズ番組、公園の散歩、会社、ゴルフ、洗車、家族でクリスマス、年金、税金控除 ───の彼岸にある。不可逆で退廃的で、常に冷たい死の香りがしている。エルンストの言う超えてはならない一線、そして俺たちが踏み越えられなかった一線の向こう側だ。

やがてヴィオレッタは少女として消費されることを拒み始める。個人から表面の少女性を抽出し、人格というものを殆ど捨象し、表現の材料にされることを拒否する。思い出してくれ、それは先程まで私やあなたがしていたことではなかったか?あるいは「まんがタイムきらら」はどうだ?「向日葵畑、麦わら帽子と白ワンピースの女の子」は?少女に少女性を期待し、崩壊した虚構の少女像を前に失望しているあの男は自分ではなかったか?

我々がヴィオレッタに“共感”し、母親や劇中の評論家たちに対して磨き上げてきた憎悪の槍が一斉にその向きを反転していく。ヴィオレッタが憎んでいるのは他でもない、この私だ。

映画のラストシーンで、ヴィオレッタはクレヨンで絵を描いた箱の中へ、そして森の奥へと逃避していく。そこは普通の少女が収まっているべき空間(インキュベーター)で、それは彼女なりの最大限の”少女への退避”だ。知らぬまま踏み越えてしまった一線の向こうに戻ることができないのを、我々は十分に知っているはずだ。

性と芸術の境界、エロティシズムとポルノグラフィを渡り歩いたヴィオレッタがスクリーンに背を向けて逃げる。母親から、バタイユから、澁澤龍彦から、ナボコフから。そしてもちろんあなたからも。